おそらく多くのフランス人にとって(もちろんステレオタイプにとらわれない人もいますが)、「日本=保守的、伝統墨守、集団主義的、競争社会、多神教的」ってのはデフォルトではないかと思われます(逆に「フランス=進歩的、「革命」堅持、個人主義的、平等社会、一神教的」という認識が対置されているわけですが)。そのデフォルトに従ってアニメも解釈されている面がありそうです。
文中の引用画像が見にくい場合は、参照先のページをご覧ください。
〜以下、後半の訳。
「漫画とアニメを理解するための社会的・文化的小ガイド」(後半)
タブーと伝統の遵守
この点に関して日本は極めて保守的です。タブーが破られることは極めて稀であり、どのアニメ企画もこのタイプのスキャンダルに結びついたイメージを持たれないようにしています。
例えばアニメの中でさえも、
―お寺や宗教的シンボルは尊重され、冒涜されることはありません。
―当局が直接的に批判の対象となることはありません。
―日本の歴史上の選択を批判することはなく、せいぜいありえたかもしれない選択に留まります(『ジパング』)。
―自然災害や経済問題といった、国民にとって起こるかもしれない災厄も「忘れられ」ます。
しかしながらアニメにおいて都市は、しばしば宇宙からやってきた敵の標的となり(『UFOロボグレンダイザー』)、神の如き存在や超越的存在とロボットとの対決の舞台(『新世紀エヴァンゲリオン』『AKIRA』)となります。実際の生活においてほとんどあり得ないこのような攻撃のおかげで、デリケートな、あるいは悲痛な話題を避けることができるのです(例えば核兵器)。

『涼宮ハルヒの憂鬱』

『新世紀エヴァンゲリオン』[*訳者注:この画像は公式?]
加えて日本の若者は、日本人の義務とは社会の発展に尽くすガチガチの仕事人間になることであるにもかかわらず、不真面目であまりに甘やかされメソメソしている、と大人から評価されています。アニメはしばしば良き道を指し示し、伝統を遵守することでこれらの「欠点」を補おうとしているのです。『スクールランブル2学期』のオープニングは、その視聴者の世代を「せんちめんたるじぇねれ〜しょん」と定義しています。
英雄的行為
アンチヒーローが「優しい」ヒーローの座を奪ってしまった我が国では、英雄的行為が時代遅れになってしまったように思えます。しかし、日本の物語では依然として英雄的行為が脚本によって祭り上げられており、それがないと批判を受けるのです(『獣王星』)。中学とか高校といったありふれた場所で展開するシリーズでは、特に苦境に立たされる若者が友人や後に恋人になる人に助けられるというような、(とても古典的な)英雄的行為を可能にするために、ありとあらゆることが起こります。そして、(ちょうど思春期の)若いパイロットがメカに乗って惑星を救うという話が、現代的な勇ましい騎士の代表例となっているのではないでしょうか?
教会
日本はキリスト教の国ではないにもかかわらず、未来的なシリーズだった『宇宙海賊キャプテンハーロック』(特に大山まゆ[*訳注:フランス語名「ステリ」Stellie]の設定)から、シリーズの根幹に関わる部分でキリスト教に準拠する『クロノクルセイド』まで、教会やキリスト教に関連するシンボル(キリストの十字架像、司祭と修道女、カトリック式の結婚・・・)が、たくさん登場します。しかし一方で、『新世紀エヴァンゲリオン』に関しては、キリスト教に準拠する意図は無く、キリスト教的な名前を借用しただけのものです。
では、キリスト教に準拠する意図が本当にあるのでしょうか、それとも日本から見てエキゾチックな世界に惹かれているだけなのでしょうか?おそらく後者でしょう。例えば、歴史的な出来事を面白く脚色した『サムライチャンプルー』がそうだし、『Black Lagoon』も、生き生きとしたたくさんの登場人物の中に秘密犯罪組織の修道女たちが登場します。

『クロノクルセイド』

『Black Lagoon』
吸血鬼
アジアの吸血鬼(『吸血姫美夕』)よりも、中央ヨーロッパの吸血鬼(『ヘルシング』『吸血鬼ハンター"D"』など・・・)の方が頻繁に登場します。『BLOOD THE LAST VAMPIRE』は、そのOVAや関連シリーズの中で、極めて自由に発想され、時代を越えた西洋型の吸血鬼を登場させました。
若者の鼻血
この日本風の隠喩はなんと天才的なことか!フォーラムでも既に投稿されていますが、(まだこれがなんだか分からない人のために言うと)この鼻血は、極端に興奮していてそれを堪えることがほとんどできない状態、例えばクラスメートの女の子とか女性を前にした男の子の性的興奮を意味しています。この隠喩の起源は、おそらく体温や心拍数の上昇、沸騰するような血流というような興奮状態からきているのでしょう・・・。もし誰か「公的な」説明を知っている人がいたら教えてください!

『グリーングリーン』の鼻血シーン
技名を叫びながら一撃を喰らわせる
スクリュークラッシャーパンチ!(Fulguro poing!) 私は日本で電車の運転手が大声を出しながら運転しているのを見ました(安全確実に運転するためでしょう)。この体験からすると、登場人物の繰り出す技に関心を集中させるために、技名を叫ぶということが役立っているのだと推論します。
しかしながら、闘いにリズム感を持たせ、観客にうけるために、技をかける前にその名前を叫んだ昔の日本のプロレスラーのことを考えると、他の説明もできそうです。このようなプロレスの戦い方が、大人気アニメとなった永井豪のスーパーロボットシリーズ(『マジンガーZ』、『ゲッターロボ』・・・)に影響を与えたのかもしれません。
闘い
日本人にとって、生きることとは闘いです(しかも自分たちのために戦うわけではない)。アニメはその戦闘の表現からして単純に善悪二元論に立っているとみなすこともできますが、全く善悪二元論的ではなかったり、各エピソードの大部分で善悪二元論が支配的であったりもします(敢えて例を挙げるなら、『星闘士星矢』、『DBZ』など)。事実、多くの脚本家は、『キャプテンフューチャー』『Mezzo』『トライガン』のように、繊細かつニュアンスにとんだ表現を使っています。メカアニメ(『ガン×ソード』)や暴力的なアニメ(『Gantz』『Black Lagoon』)も同様です。
競争
闘いと同じ文脈で、競争とはベストを尽くし、圧倒し、頭角を現すチャンスです。日本人の基本的特性としての「ベストを尽くす」ということは、あらゆる形でよく登場する表現の一つです。
説明する
ナレーションであれ登場人物の発言によるものであれ、作中に生じた疑問に関してしばしば説明が加えられます・・・。登場人物の迷いや状況を説明することで、登場人物を際立たせることができます。(日本では御馴染みの)科学的な事柄や神秘的な事柄を加えることでシリーズの世界観に深みを持たせるためにも、この方法が使用されます。
超自然的なもの
魔術や宗教などを通して、主人公はしばしばその力や能力を得ています。この点は、(既に乱暴な議論だとされている)「ジャパニメーションにはリアリズムが無い」と言う中傷者による批判の根拠になっています。先ず、アニメは一般的に低年齢層の子どもだけを対象としているわけではなく、また、ヨーロッパにおけるような一神教の宗教によって消されることの無かった神秘的な伝統が日本にはあります。アニミズム的な信仰は言うまでもなく、たくさんの宗教諸派や習慣として、日本において超自然的なものが日常の一部に成っているのです。エネルギーの弾を相手に発射する様は極めて「視覚的」であり、脚本家はそのために全力を尽くします(『ドラゴンボールGT』)。仏教のお坊さんは実際に力を持っており、紙の上に(特に爆発する)呪文を書くことが出来ます(*訳注:なんのことが分からんが、アニメの中の話?)。
アニミズムや超能力に関して、山で滝に打たれる主人公を定期的に見ることが出来ます。(日本人にとって)これは当然のことで、瞑想力は泉の精霊によってのみ強められるものだからです。
アニメの脚本家は「物理的に認められる」話と神秘的な話を区別して扱っていません。例えば、『Death Note』は警察の捜査と神秘主義をごちゃまぜにしています。

『Death Note』
雲
それは夢へのいざないであり、日本のTVシリーズ、OVA、映画の大半が、他の国の作品とは比べ物にならないくらい、空のショットを登場させています。雲がたゆたう空は、『紅の豚』や『天空の城ラピュタ』のように時として物語の鍵となります。

『灰羽連盟』
以上のような事柄は、脚本家が好んで使用したり、使用するのを控えたりしていることで、だからこそ理解しておくべき最も基本的なことなのです。しかし、中には我々フランス語圏の人間にとって全く分からない事柄もありますし、また、フランス語サブの注記で説明されていたり、フランス語吹き替え版ではほとんど見過ごされていたりする事もあるのです。
作成者:金属殿様(Metallord)
〜以上、小ガイド(1-2)終わり。
参照先
クソワロタw
きっと、興味しんしんで運転席をのぞきこんでいたんだろうと思います(笑)。