2007年08月02日

フランス人の『コードギアス』評(2)

 Orient Extrêmeの評者による『コードギアス』評をご紹介。23話までの時点のものです。やけに内容が難しくて何回か途中で投げ出しましたが、やっと訳し終えました。怪しい部分が何箇所かありますが・・・。

 ランペルージ(Lamperouge)ってフランス語でランプ・ルージュ(lampe rouge)だとすると、「赤い灯火」とか「赤いランプ」という意味になるかと思いますが、なにか意図があるんですかね。


〜以下、訳

コードギアス  力が正しいのは、それが必要とされる時である

 谷口悟朗は円熟した!自覚的に組織された闘いを正当化する、有名な階級闘争の概念を基に書かれたネオ・マルクス主義的作品、『スクライド』の扇動者[=谷口]は、今回の『コードギアス』において、二元論から離れつつも長年主張してきたシニカルな立場に裏付けられた自説を、楽しげに展開している。(原因と結果の間の)因果関係のみが、「マキャヴェリズム」(machiavélisme)と「マキャヴェッリ主義者」(machiavélien)を分かつのだ・・・(訳注1)。戦争が手段であるとするならば、戦争はニッコロ・マキャヴェッリが体系化したかなり広い意味での政治能力のなかに含まれる。彼は統治の技法とプラグマティズムを発見したのだが、悟朗はこの物語の主人公、ルルーシュとともにこれらを葬り去ろうとしているのではないか?


「統治するとは、反抗したり、反抗を考えることさえできない状態に臣民を置くことである」

 2010年8月10日、内政干渉権が承認された。第二次世界大戦における敗戦の55年後、ちょうど同じ日に国際紛争の火元であった日本は降伏した。歴史は永遠の繰り返しに過ぎないのか?おそらく、歴史のサイクルはまだ完全には閉じられていないのだ・・・。この近未来の舞台においては、現在と比較して多くの事柄が変更されている。例えば、石油の地政学的影響力はもはや無く、「サクラダイト」という燃料に置き換えられている。アメリカ合衆国は神権政治を行う帝国になっており、日本を強制的に併合し、ナショナリズムとテロリズムの亡霊にとりつかれたエリア11とした。神聖ブリタニア帝国第17代皇帝、クローヴィス(!)の支配の下で(訳注:2)、今は亡き日本はアングロサクソンによる占領の時代を再び迎えた。

 日本は、ブリタニア帝国による植民地化によって、抑圧と文化破壊をうける。帝国は、ブリタニアの秩序を護る使命を託された兵器、ナイトメアフレームを持ち、常にこのヒューマノイド・メカの世代を重ねることで優れた先進的技術力を確保してきた。ゲットーにおける虐殺(ワルシャワのようだ・・・)や、階層的市民権を利用することによって、このエリアの住民の声は封殺されており、エリア11に居住するブリタニア市民のために、「イレヴン」は一切の権利を剥奪されている。また、巨大な企業連合がブリタニア経済のために活動しており、そしてメディアは独立性を完全に失っている。「競い、奪い、獲得し、支配する」という冷酷非道な原理に忠実であることによって、帝国の支配は、あらゆるタイプの権限に及んでおり、極めて堅固である。しかし・・・。

「人間の計画に完璧なものなどない」(第1話)

 二つの国と同じく、皇室のメンバーであり帝位継承者でもあるルルーシュ・ヴィ・ブリタニアは、日本最後の首相の嫡子である枢木スザクと全面的に対決を迫られる。この二人が、より緊張感に満ちていた幼少期に友情を育んだことは運命の皮肉である。その幼少期においてルルーシュは、母親の死と彼が面倒を見ている妹ナナリーの失明の原因となった、皇室内での激しい権力闘争を逃れるために日本に亡命し、そしてスザクと共に成長した。占領は激しい抵抗を呼ぶことはなかった。もし抵抗があったとすれば、それはおそらくあまりに二元論的な[陰惨な]ものになっていたであろう。圧制に抵抗するということがスザクとルルーシュの共通の目的であるが、ルルーシュは帝国の打倒までをも目指している。

 一方で、侵略された日本は、中から改革するためにブリタニアのシステムに同化していこうとするスザクと、レジスタンスグループによる実験兵器の奪取に不本意ながらも巻き込まれたルルーシュの間で交錯する、イデオロギー対立の場となっている。ほとんど人間と同じ生物体であるということが明らかになるこの兵器[=C.C.]は、ルルーシュと「契約」を交わし、一瞥するだけで誰に対しても自らの意思を課すことが可能な、ギアスという王の力を彼に授ける。ルルーシュは、目的を達するためには使用する手段を選ばない。彼は反逆を企て、ブリタニアの貴族に恥をかかせるのに役立ったチェスのコマのように、支持者を配置していく。策略と地政学、これが悟朗とその主人公にとって重要な言葉なのである・・・。

「支配したいという欲望は、人間の心の中で最後まで残るものである」

 谷口悟朗は、物語の筋を混乱させ、役割を転倒させる時でさえ、煩悶し続けるこの物語の骨組みを破壊すると同時に、抑制の効かなくなったリズムで構築と脱構築を連結させようとしている。あらゆる二元論を排除するために、物語はすべてのことを明らかにはせず、良い行いあるいは悪い行いを安心して分類することのできるような決定基準のないまま、登場人物には広い決定権が与えられている。ルルーシュはより公正な世界のために戦おうとするが、このブリタニア人と彼にギアスを与えたアンドロイド、C.C.の間の関係が進展するにつれて、次第にルルーシュの陰鬱な構想が形になっていく。母親の敵討ちを願いながらも、ルルーシュはチェスのような戦いの中で我を忘れ、人間の命を木片程度にみなし、この策略家は現実を大混乱に陥れていく。

 構築は脱構築を導き、脱構築は構築を導く。悟朗の作品においては、展開されるテーマに関しても、扱われる争点に関しても、設定されるものが何も無い。事実『コードギアス』は実に様々な面を持っており、もしこの『スクライド』の監督が過去の過ち、すなわち作中世界を主人公たちの周りの雰囲気だけに限ってしまったこと、を反省していなければ、『コードギアス』は一貫性を失った滅茶苦茶な作品になっていたかもしれない。ルルーシュがレジスタンスに参加したことよってこのレジスタンスが始まったわけではなく、正確には既に存在していたレジスタンスによってルルーシュの参加が促されたのであり、つまり、このブリタニア人の主人公が作中世界に対して自分の意思を貫徹しているのではなく、彼の決定に影響を与えるのはほとんど変わることのないこの世界に他ならないのである。悟朗が[日本に]刻み込まれたトラウマ(アメリカによる占領)を基にした映像と、この先あり得るかもしれない現実を我々に提示していることを考えると、幾ばくかの政治的な検討を試みる他無い。

ギアスと悟朗:宣伝効果と仕掛け人

 (谷口悟朗の中にまどろむ)ニッコロ・マキャヴェッリは、作中に頻出する象徴によって姿を現す。その解釈を巡っては、『エヴァンゲリオン』がそうであったのと同じように、オタク同士の酒場での会話を大いに盛り上げてくれるであろう。いずれにせよ、悟朗がマキャヴェッリを参照したのは、経験則(16世紀のイタリア諸公国、21世紀のアメリカ文明)や古い歴史の考証に基づくからである。特に属州政府と、二重に属州を統治しようとするブリタニア人と同じようなローマ人の試みについて、悟朗が適切かつ妥当な形でマキャヴェッリ主義的な理解ができているのはこのおかげである。例えば作中では、現地人を軍務に就かせる補助軍団、あるいは、現地の有力者の間で世界の第一級の文明に属することを意味する社会的地位を争わせるための、名誉市民権といったローマのシステムを見ることができる。クローヴィスや神聖ブリタニア帝国という名前の選択は偶然のものとは考えない方が妥当であろう。

 だからといって、『コードギアス』が単なる思考実験的な作品に過ぎないわけではない。抒情的な話と言うよりむしろ哲学的な話を扱っているこのアニメシリーズにおいて、その思考実験はかなり抑えられてさえいる。このアニメの人気と収益性を確保するために、様々な他のアニメをあからさまに参照したことで大きな宣伝効果を得た。例えば、激しい闘いと二つのイデオロギー対立は当然『スクライド』、メカデザインは『エスカフローネ』や『エヴァンゲリオン』、さらにギアスという超越的な力は『デスノート』といった具合である。悟朗が『コードギアス』のキャラクターデザインにCLAMPを起用しなかったとしたら、参照しなければならない他のアニメ作品は四倍になって、参照リストはさらに長くなっていただろう。CLAMPのデザイン上の個性が強いため、この作品の原作が誰なのか、何度も混乱してしまう。

 この魅力的な作品を補強するために、谷口悟朗は音響監督を井澤基に任せた。無名ではないにせよあまり知られていなかった人物で、彼によるアニメの音響は重過ぎず、あまりに控えめなこともあるが、稀に見るクオリティを持っている。この作品で玉にキズなのは、情けないほどに陳腐なJ-popとJ-rockによる二つのオープニングである。これはアーティストのせいであるというよりむしろ宣伝効果を期待したからなのであろうが、幸いなことに、神経質でありながらも人の心をひきつけるこのアニメシリーズの豪華で特徴的なエンディングによってこのオープニングの埋め合わせがなされている。

 (全く空想上のものではない、あるいはほとんど空想上のものではない)巨大都市における政治に対する悟朗と皇子ルルーシュの攻勢は、大きな理想を守りたいという考えに基づくものである。『コードギアス』の力の源である多面性は、この賞賛すべき意図に端を発した闘争の中にあるのであるが、同時に、その意図はあらゆる性質の逸脱をも許容してしまうものである。日本の視聴者が既に心待ちにし、谷口悟朗がシリーズ二期の製作において時間をかけようとしているのは、人間のあらゆる幸福を飲み込む多面性である。谷口悟朗は、この作品が傑作となるかどうかの帰趨を握っている。傑作とならないまでも、このシリーズは今の時点で既に今年の優良作品の一つとして有名となった。2007年の最高作品となるのか?続きを見なければならない・・・。


Thomas Chibrac
2007年6月2日

〜以上、訳終わり。

参照先


 *訳注1:評者は、マキャヴェッリの説を、「目的を達成するためには手段を問わない」権謀術数肯定主義と捉える見解をマキャヴェリスム(machiavélisme)、そしてそれを信奉する人をマキャヴェリスト(machiavéliste)とし、これに対してマキャヴェッリの説をより忠実に理解しようとする人をマキャヴェリアン(machiavélien)=マキャヴェッリ主義者と区別しているのかな、と思いこのように訳しました。でも良く分かりません。

 *訳注2:「17代皇帝」の根拠は不明。クローヴィス(Clovis)は、メロヴィング朝フランク王国を興したクローヴィス1世と同じ名前のため、フランス人にとっては驚きだったようです。


posted by administrateur at 22:59| Comment(1) | TrackBack(0) | コードギアス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
ランペルージュは皇帝の意だと思います。
Posted by   at 2008年10月06日 16:27
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