『エルフェンリート』の「萌え+グロ」とか、北野映画の「静謐+突発的暴力」というような新しい「発見」は、もし日本が表現規制の厳しい国であったら無理だったかも。その分、表現規制の厳しい欧米のファンにとって、これらの作品が持つ衝撃度はより一層大きかったのではないかと思います。
この評者、いろいろ不平を言っていますが、多分『エルフェンリート』が物凄く気に入ったのではないかと思います。脚本に関する評価が一貫していないのはご愛敬。
↑できるだけ続けてみようと思います・・・。
〜以下、訳。
エルフェンリート サディストは美しいのか?
フロイトは、人間は欲動と良心との間で引き裂かれているとして、例えば死を目の前にしてしばしば曖昧な行動をとる人間を説明しようとした。ある時は病的な欲動に魅入られて、またある時は理性的な良心によって導かれて、嫌悪感を覚えたり我々の正義感を憤らせたりするものでありながら、同時に目を逸らすことのできないものに出くわし、射すくめられ、獲りつかれ、好奇心とサディズムが入り乱れることがある。『エルフェンリート』は、まさにそれである・・・。
暴力的?そう、暴力的。暴力的なことの他に挙げるとすれば・・・血が流れる?ええ、しかもたくさん。ここ数年のジャパニメーションはそのエスカレート振りが顕著だ。もっと、さらにもっと。どこまで行くのだろうか?暴力と血が、テレビやインターネット上にも溢れているこの時代においては、抑圧された我々の欲動をこの二つによって満足させることが娯楽の一つになっており、とにかくすべてはショックであるかどうかにかかっている。島でさまよう高校生たちの殺し合い?(*訳注1)そんなものはもはやあまりに陳腐!人々が欲しているのは、闘技場の熱い砂の上にぶちまけられる内臓であり、そして死刑台の上で串刺しにされる内蔵なのであり、それさえあれば何でも良い。我々の現代において必要なのは、それがピクセル画像化されていることなのだ。『エルフェンリート』はこの要請に応え、そのことによってこのアニメは2004年という年に、血まみれの存在感を残すことが出来たのである。死刑執行人が待ち切れないようだ・・・。無駄話は止めて生体解剖にとりかかろう。
エルフェン・・・何だっけ?
リート。オリジナルのタイトルだ。ライセンスが取得されさえすれば、ヨーロッパでもアメリカでもおそらくこのタイトル名だろう。ライセンス取得に関しては、少し待たなければならないかもしれない(*訳注2)。2004年に放映された全13話のこのアニメは、『おねがいティーチャー』、『あずまんが大王』、あるいは最近では『おねがいTwins』で有名なスタジオ、ジェンコによるものだ。『エルフェンリート』は、単に残酷なアニメなのではなく、紆余曲折のある、極めて深く掘り下げられたドラマティックな脚本のアニメでもある・・・。信じられない?OK、公式発表を見て、この新作の中身を見てみよう。ディクロニウスは、人間によって作り出された強大な力を持つ突然変異体である。彼らは、アルカトラズよりも厳重な施設で研究されている。しかしある晴れた日、そのうちの一人が、制止しようとする警備員を皆殺しにしながら、脱出しようとする。ルーシーはやっとの事で逃げ出したが、一人の警備員が頭部を狙撃することに成功し、そのためにこのディクロニウスは意識を失い、研究所を取り巻く海へと姿を消してしまう。
このディクロニウスの運命は、従兄弟のユウカと再会するために自分が生まれた街に戻ってきたコウタの運命と交錯する。コウタとユウカが、街を囲む浜辺で朝の散歩をしながら彼らの幼少期のことを思い出していたところ、記憶喪失になったディクロニウスと出くわす。そして、コウタは[彼女の]世話をし、自宅に泊めることにする。同じ頃、研究所は逃走者を抹殺するためにSAT(特殊急襲部隊)を急行させる・・・。異論があるかもしれないが、ここで指摘したいのは、この記憶を失ったディクロニウスが、ちょびっツに似ているということだ・・・。
エロ(ecchi)に奉仕する、にゅうとちい
脚本からすると、このような見方はけっして変なものではない。『ちょびっツ』におけるヒデキと同じく、コウタは、このページにあるようなほとんど何も着ていない状態で出合ったこの可愛いディクロニウスに、記憶喪失後のルーシーが発する唯一の音節、すなわち[nyuu]、にちなんで名前をつけることにする。作者の岡本倫は、悩みながらこの作品を描いたというより、その反対にむしろやりたい放題である。ほとんど理由のない暴力シーンや、エロティックな(ecchi)シーンが繰り返し多用されており、[この作品において]最も重要な位置を占めている。
『エルフェンリート』がこの類似作品[=『ちょびっツ』]と異なるのは、[暴力的でエロティックな]これらのシーンで登場人物が取る態度である。『ちょびっツ』においては偽りの無邪気さ、愚かさ、そして無関心さに向かうのに対して、コウタは皮肉っぽい態度をとることさえあるのに、それで上手く行っており、それが本当に面白い。にゅうがユウカの胸に飛び込むのを見て、「彼女はなにかはっきりとしないことを思い出したに違いないんだよ」[*訳注:元の台詞を未確認につき、不正確]と彼は言う・・・。このような笑ってしまう部分から、この強烈なアニメの内容に話を戻すと、このアニメが、のぞき魔やサディストのまなざしを、作品の中に取り込もうとしていることがはっきりと分かる。つまり、巨乳、サテンのネグリジェ、扇情的な姿勢、あるいは染み一つ無い真っ白な下着といったものが頻繁に登場することからわかるように、[作品に取り込まれているのは]]我々の下品な本能を刺激するあらゆることであり、いくつかのシークエンスがこのような類いのシーンを登場させる単なる口実にしかなっていないことが、あまりにも明白である。このような点が、いくつかのエピソードの完成度を貶め、同時に脚本の貧弱さをかろうじて補っている。ペドフィルというテーマでさえ遠慮なく繰り返し登場するのだからこの作品の破天荒さは極限にまで達する。しかし、それは失敗なのではない。このようなシークエンスから最も残虐なシーンへとすぐに転換することが可能であり、そのことによって喜ぶ視聴者も中には居るのである。彼らが喜ぶのは、登場人物の設定からは予想もつかない様な残虐さなのである。
絞首−斬首
この作品は脚本の大部分が暴力シーンで構成されている・・・。ルーシーが不幸にも自分の目の前に現れた人々を次々に殺しながら、警備員たちのバリケードを突破する最初のシーンからこのような調子である。『エルフェンリート』の残虐なシーンは血だらけで執拗なのだが、『北斗の拳』のようなアニメとは違い、極めて入念な描写がなされていてリアリスティックだ。そのためショックが大きい。女性にも、子供にも、可愛い動物にも、誰に対しても容赦なく暴力が振るわれる。このアニメにはいかなるモラルも無く、あらゆることがしつこく暴力に向かって行く。ここまで規格外のアニメを見ることは滅多にない。文字通り、肉体が裂け、登場人物は切断され、骨が飛び散るのである・・・。笑い事ではない。あまりにリアリスティックで嫌悪感さえ覚える。しかし、このアニメを一端見始めると、もうこのアニメから視線を外すことは出来なくなる。
『エルフェンリート』のシーンには、ある基本的精神が貫かれている。それは、人間の内臓へのこだわり、陰惨さ、そして病的さである。戦闘シーンが終わると、死者の肉体から魂が離れていくかのような光景が繰り返される。戦闘の後に残るのは、切断された肉体であり、中にはまだ息をしているものもある。まさしくそこは戦場だったのだ・・・。軍医は登場しないが、エルフェンリート版の戦場にそれを期待するのはあまりに道徳的過ぎることなのであろう。
[*参照先では墓地での四肢切断シーンを引用]
エルフェンリートから流血を取ったら、何が残るのか?
何も残らない、と答えるのは言い過ぎだろう。中身が無く、才気も感じられないものの、一応脚本があることは確かなのだから。とは言え、脚本のほとんどは予定調和的で、最終話のラストで残される唯一の謎だけが脚本の長所である。このような脚本を失敗作と言っても差し支えないだろう。しかしながら、このアニメの陰惨で病的な雰囲気のおかげでいくらか脚本が引き立てられていることは確かだ。このため、このアニメの登場人物は多少は魅力的だったかもしれないが、ちぃほどのカリスマ的な魅力は得られなかった。このアニメシリーズのラストにおいても、主人公たちよりも、惨たらしい死に方をした無辜の犠牲者である、脇役たちの印象の方が強く残るのである。
このアニメのファンは、最終話の展開がお気に入りだろう。そこでの登場人物間の痛々しい人間関係の中に、科学の暴走に関する製作者の深いメッセージが込められているものと思われる。エロシーンが至るところに散りばめられているが、にゅうに親しみを感じさせること以上の効果を得るには至っていない。ラストシーンはこのアニメの象徴的なシーンで、好き嫌いがはっきり分かれる・・・。映像に関してはむらがあるものの、いくつかのシークエンス、特に戦闘シーンでは極めて念の入った仕事を見ることができ、そのリアリスティックな表現に驚かされる。その他にはこれといって目を引く点はない。まずまずの出来というところだろう。このアニメのシークエンスの大部分は、一流とは言えずむしろ二流の出来である。音楽に関しても、特にクオリティが高いわけではなく、かろうじて伴奏に徹することができただけと言うことができるだろう。しかし、オープニングだけは非凡な出来である。
神聖なる「Lilium」
この作品に一点だけ救いがあるとすれば、それは「Lilium」というオープニングであろう。我が年老いたヨーロッパにとっては革新的であり、また魅力的でもある。このオープニングは、フレスコ画のような絵をみずみずしい形で再構成したものである。19世紀のオーストリアはウィーンで生まれたグスタフ・クリムトが引用されている。グスタフ・クリムトは、東欧を席巻し、フランスではトゥールーズ=ロートレックを始めとするアール・ヌーヴォーとして花開く、「分離派」の代表的人物である。この芸術様式は、一定の諸自由に対する抑圧と、大量生産の時代に特有の没個性が特徴的な、第二次産業革命の後に姿を現した。そのため、一般大衆の創造性を刺激するために、ありとあらゆる素材が作品製作に使用されることになる。この様式は1918年以後、別の流派に取って代わられることになる。すなわち、アール・デコである。このオープニングは、クリムトの『ベートーヴェン・フリーズ』という題名の作品を引用しており、ラテン語の歌詞による音楽から、グレゴリオ聖歌を連想せずにはいられない。クリムトの作品とこのオープニングの比較は次のリンクをご覧いただきたい。 image 1, image 2, image 3.
このアニメを特徴付けている戦闘シーンと同じく、このオープニングは、深い感情を呼び覚まし、心に直接響くものであり、身動きが取れなくなる。ほとんど完璧な作品と言っても良い。我々は涙を落としつつも、オープニングを見るたびにその後のアニメのクオリティに落胆することになり、その落差が極めて残念だ。このオープニングと本編をつなぐ唯一の共通点が、ディクロニウスの幸福とは何かということを追求する点であるが、本編ではほとんどこのテーマが検討されず、『ちょびっツ』で見事に展開された人間と機械との間のディレンマに至ることはない。この点は、オープニングの力強さを全く損ねるものではないが、本編の脚本にとっては致命的な欠陥となった。「芸術は、美醜に関する基準という位置づけから抜け出ることはできるのか?」という哲学的な問いについて、『エルフェンリート』というアニメは、これを完全に肯定する答えを提示した。すなわち、芸術とは、美しさでも、醜さでもなく、ショックを与え、不健康なものである、ということである。このアニメ作品の成功は、見事なオープニングと血まみれの戦闘シーンによるところが大きく、このおかげでジャパニム(japanime)の節操の無い暴力が好きなファンは大満足したことだろう。『エルフェンリート』は[ヨーロッパではあり得ない]宇宙人のような作品なのである。オープニングと暴力シーン、テンポ感がありながらも中身の無い脚本、そして陳腐な音楽のおかげで、このアニメはかなり異様な雰囲気をたたえることになった。
駄作?そうかもしれないが、『エルフェンリート』は、「Lilium」の後に続く本編に登場する極端なまでの残虐さのお陰で、少なくともこのジャンルにおける傑作になったと言うことができる。傑作でなければ、上記のように長々と論じることもなかっただろう。
Thomas Chibrac
〜訳、終わり。
参照先
*訳注1:フランスでも話題になった『バトルロワイヤル』?
*訳注2:フランスではKaze社が『エルフェンリート』のライセンスを取得。現在DVD第一巻が発売。最近、公式HPも出来ました。吹き替え版の試聴も出来ます。
ラベル:エルフェンリート
フランス人は容赦ないですねー。
でもとても面白い分析で、楽しんで読めました。
これからもぜひこういったのを紹介してくださいね!
いいものはいい!ダメなものはダメ!と、はっきりしているので面白いですね。あんまりよく知らないことに関してもはっきり言っちゃうところは玉にキズですが・・・(笑)
更新のペースは非常に遅くなるかと思いますがお楽しみいただければ幸いです。
気に入らないものは力ずくで潰すって価値観が欧米にはあるから
何かと規制しろだの、日本の表現規制は緩すぎるだの、国体に関わるいちゃもんを平気で付けてくるんですよ。欧米人って。
だから正直、アニメは欧米には進出して欲しくないんですよね〜
自民党アニメに表現規制入れるらしいよ
あーあ
(´Д⊂ヽ
面白いというかもっと評価されていい作品。
本人も長々と論じたとしているように冗長で、認めたくない自身の嗜好の言い訳を捻り出すのに苦慮しているように感じた
差別と救いだったかな
話半ばで終わってしまうから脚本がおかしく感じるんじゃないかな
個人的にはエロ要素はいらんかったな
「自分の主張をする」と言う事が正しいと教育されている国が多いようなので、「私はこう思う!」と言う個人的な主張だけで、「もしも自分がその主人公のような境遇に生まれ育ったらどうなったんだろう?」と言うような想像力が無い人が多い事です。
一神教(キリスト教、イスラム教等)が基盤となり現在の体制が構築された国が多いので、「絶対的な創造主と私」と言う”0か1”という価値観から抜け出せないように感じます。
自分と違う考え(理解出来ない事)に関しては、(エルフィンリートでは)エロ、グロ、ペド、動物虐待、近親相姦等と言う観念に捕われその奥に潜んでいる本質には気付いていない人が多数派なんだと思います。
キリスト教圏なのにキリスト教の本質を通して見ることができていない。
それから最終話の謎って何だ。誰が帰ってきたかってことかな?それならオルゴールと柱時計、最終話のタイトルでわかりそうなもんだけどな…