登場人物の名前を間違っていたり、
*その後、DVDが再販され、それに合わせてこの批評も多少訂正されておりましたので訳も訂正いたしました。内容はほとんど変わりません。[12月9日]
〜以下、訳。
人狼 JIN-ROH 野獣が目覚める
『人狼』はジャパニーズアニメーションの存在を永遠にとどめる、時間を超越した作品のひとつであるように思われる。公開されてすぐに傑作とみなされ、「重いが美しい」映画のカテゴリーに列せられることになった。古めかしい(anachronique)アニメーションのため、かなり昔の作品のようにも見えるかもしれないが、この狼の部隊の映画は1998年の作品である。もし押井が、沖浦という操り人形を使って自分を主張する危険な革命家なのだとしたら、『人狼』は世界革命主義者のパンフレットということになるのだろうか?学生生活に慣れ始めるこのちょうど良い時期に再版された。
押井守(+原注1)は、アニメーションの殿堂の扉を開くことになる作品[=『攻殻機動隊』](+原注2)を完成したばかりであったが、数年かけて書かれた漫画『犬狼伝説』を基にして、短いOAVシリーズを製作しようと考えていた。三つの実写映画(ケルベロス三部作)が製作されることになるこの漫画は、ケルベロスの世界を舞台としており、すでに『人狼』の素案はできていた。しかし、最終的に『犬狼伝説』を基にして映画を製作することを託されたのは、若き有望アニメーター、沖浦啓之(+原注3)であった。沖浦は毅然として製作にあたり、恋の物語とすることが唯一可能なやり方だと考えた。押井の長年の同僚である伊藤和典がなかなか返事をしないため、『うる星やつら』(Lamu)以来初めて、押井が脚本の任に当たることになった。漫画の題名をそのまま訳せば『犬と狼の伝説』になるが、すでにこの巨匠の犬(とその仲間)に対する偏執的なこだわりがここでも特徴的である。しかし間違ってはいけない。押井はブリジット・バルドー(*訳注1)ではない!押井は人間よりもさらに完璧な高みへと達している存在として犬を崇拝しているものの、同時に現代社会のメタファーとして(無意識に?)犬を登場させているからである。では、押井は現代の寓話作家なのだろうか?『アヴァロン』において現実に到達するための鍵であった犬が、『人狼』においては全く異なった形をとっている。権力に飢えた人間によって操られながらも、「孤独な犬」は権力を行使する野獣にはならないのである。
もし・・・だったら?見かけだけは架空戦記
もし、ドイツが大戦に勝利し、現在のようなアメリカの庇護の下にある日本ではなく、ドイツ統治下の日本だとしたら?押井が「ケルベロス」の世界を展開したのは、このような仮説の上であり、このような架空戦記の中でである。実際の日本と同じように、[作中の]日本は二つの原子爆弾によって大惨禍を被ったものの、数字の上では右肩上がりの経済によって急激な復興を成し遂げた。しかし、この成長に取り残された人々は数多く、街路では怒りが噴出しようとしていた。体制側は諸権利を制限し、その態度を硬化させたため、多くの極左グループは武装闘争の道を選ぶ。
そのような極左活動家の中には、東京の下水道を根城とする地下組織、セクト(Secte)があった(*訳注2)。彼らの活動とは?デモ隊に機動隊が突入する前に機動隊を燃やしてしまう、ということである。しかしそのためには秘密裏に行動しなければならず、死のプレゼントが入ったカバンを送り届けるために、赤い服を着た女子高生が参加しているのはそれが理由である。このようにして『人狼』は幕が開き、そして政府官憲の手に落ちるよりかは自爆を選ぶという悲しい運命をたどる「赤ずきん」、阿川七生が登場する(*訳注3)。孤独な犬、伏は、この少女を自殺に追いやったものとは何なのか、という疑いに捕われ、服務規則に違反することになる。
ありきたりな展開は無く、陰謀が少しづつ進行していくにつれ、伏は少しづつ追い詰められ、ついには隘路でありながらも素晴らしい逆転劇へと物語は進んでいく。このため、『人狼』は非常に奥行きのある作品となった。残酷でシェークスピア的な悲劇に近い作品であるが、安っぽいお涙ちょうだい風の話には一秒たりともなっていない。
現代日本の悲劇
もし押井が日本の1968年の大騒ぎを否定し、そしてより若い日本人に対して50年代の日本がどんなものかを見せようとしているとしたら、これまで語られることのなかった日本の歴史についての作品ということになろう。確かに彼はインタビューで何度もそのことに言及しているが、ナイーヴな人をからかっているだけであろう。『人狼』の中では、神聖不可侵の政府や自衛隊に抵抗する、若い女子学生(および彼女が所属する全学連)と活動家たち(1968年の事件の後に日本赤軍が結成された)の力関係を見て取ることができる。押井は、自分の国が「個人を社会という機械の燃料として、役に立たなくなるまで」(+原注4)酷使しているということを当時認識したと発言しているが(*訳注4)、そこに若き押井の青春を見出さないわけにはいかない(+原注5)。押井に言わせれば、ヴェトナム戦争反対デモや、67年から68年にかけての騒乱や、羽田闘争の時の(*訳注5)東京での衝突の際に見ることのできた、動員された物凄い力のことを、日本人や、特に日本人の作家は忘れているのである。『高い城の男』(+原注6)におけるフィリップ・K.・ディック(+原注7)のように、押井は人々が見たくないものを映し出すだけのメタファーに富んだ平行世界を描いているのである。しかし、アメリカの巨匠とは異なり、押井は観客に悲しい現実を分からせるために、最終的には空想的ユートピアの虚像をはぎとる。
アニメであれ実写であれ、架空の話であれ現実の話であれ、舞台が過去であれ未来であれ、この監督にとって映画とは現代社会のメタファーでしかない。従って、暴動や、保守的で強圧的な警察といった、押井にとってなじみ深いことが、テーマになるのである。しかし、これらのテーマに対してステレオタイプを植え付けることなく、脚本は巧妙に組み立てられており、決して単一の見方やなまやさしい見方に陥ることはない。
この物語を映像にするにあたり、強烈な印象を残す3D処理が使用されているが、Production I.Gは、控え目なアニメーション(しかし驚くほどよく出来ている!)と地味な色(50年代の雰囲気を想起する色調)を使うことにした。しかし一番驚くべき点は、色に立体感がなく、ぼかしもないことであろう。平坦な色合いだけであれだけのことをやってしまうとは!あらゆる表現が厳格な方法論のもとでなされており、動きはゆったりしていて、全体の雰囲気は重々しい。『人狼』は、「クラシックな」映画好きの評論家が沖浦にどうして[実写ではなく]アニメーションの映画にしたのかと質問するぐらい、他にはない映画なのである。しかし、方法論が違うのだ。答えは明快だ。『人狼』はリアリスト主義のアニメーションに属する映画ということだ。セル画がCG処理に取って代わられていないこの傑作を前にして身震いしてしまう。2Dは未だ死んでおらず、アニメーターの名人芸に勝るものはないということをこの作品のすべての製作者たちは証明して見せた。
人間性と獣性のはざまで
押井が繰り返し登場させてきた要素が、人間と犬の間のメタフィジックな概念遊戯であるが、この作品はかろうじてそれに陥ってはいない。しかし、押井は百戦錬磨の作家である。我々が知っているヴァージョンとは少し異なる、この『赤ずきん』のドイツヴァージョンは、この押井の熟練をもって映像化されたのである。この巨匠は二元論的対立を得意としており、赤ずきんと狼の間の美しくもスケールの大きな物語を我々に見せてくれた!しかし狼は、生まれながらにして自分に身についている獣性と、狼の群れとしての獣性に支配されているという悲しき運命とともにある。相手に幸福を与えようとしても、近づいてくる者はすべて彼らの爪によって死に追いやられる。これは伏と圭の運命というよりも、人間性そのものの運命である。ここで提示されているのは、境界を超えることができず、哀れな状況下にありながらも無駄に理想を目指そうとする皮相な人間である。とは言え、ペシミズムが支配的でありながら、自分の獣性を見まいとする伏があらゆる登場人物の中で一人抜きん出た存在である。このニヒリスティックな雰囲気の中で、この男は自分を取り巻く状況から抜け出し、より素晴らしい人間性に到達することができるのか?伏はニーチェ的な超人主義の道の途上にいたのか?『人狼』は、溝口肇(+原注8)が強調していたように、ただ陰鬱なだけの作品ではなく、むしろ光と影の強弱がはっきりしている作品である。確実なことは何もないが、しかしすべては仕組まれているのだ。
そして沖浦は巨匠の尻を蹴った・・・
ここまでほとんど押井氏の人柄と役割のみを論じ、またきわめて主観的かつ作品擁護的な立場で書いてきた。しかしながら、それだけでは『人狼』の持つ独特の魅力、雰囲気、感動を見逃してしまうことになる。押井が監督をしていたら、押井自身が(少し悔しそうに)述べているように、この映画は別の作品になっていたことだろう。沖浦啓之は『人狼』監督時に30歳になったばかりで、それまでに原画あるいは作画監督しか経験していなかった。彼は、初監督作品、それもなかなかの傑作において、模倣やありきたりな表現に陥ることなく、そして押井の圧力に押し潰されることもなく、完成度の高い、奥深い作品を製作するという偉業を成し遂げた。彼はもっと年齢が上の他の監督も持っていないかもしれない様な技量を発揮し、伝統的なアニメーションの水準を乗り越えた。製作の際、彼は脚本の一部を変更している。というのは、当初は犬とともに(また犬か!)思索にふけるシーンが予定されており、社会における人間という点について15分考察が続くはずだった。脚本のカットはこの部分だけだったのだが、『人狼』が無駄な考察ばかりを続けることで重苦しく、眠気を催すような作品にならないために必要なものであった。
『人狼』は二人の人物の想像力によって生まれ、アニメーションスタジオ(Production I.G)の優れたスタッフによってさらに見事な作品へと昇華された。おそらくこの傑作は、ある者にとっては知的過ぎたり、またある者にとってはアクションシーンが少ないと見なされかねず、万人受けはしないだろう。地味で陰鬱な上にセックスシーンや暴力シーンがないことに落胆するアニメファンもいるかもしれない。しかし、『人狼』はむしろソフトな映画なのであり、狼の慎重さを持ちながらも同時にあらゆるものを突き崩してゆく、時代を画する(カルト?)映画なのである。この映画に欠点があるとすれば、それは押井映画に共通の点、すなわち、あらゆる要素がゆっくりと展開していくという点であろう。前半の展開が遅いとは言え、気になる程度のものではない。
以前発売されたBox版は、(葉書やポスターといった)関連グッズと共に、オークションサイトで値段がつりあがっていたが、TF1ヴィデオがこの素晴らしい映画を再販してくれた。幸運にもこのBox版を持っている人は、素晴らしいボーナストラックを収録した二枚目のDVDの、溝口肇の作曲によるOSTを心行くまで楽しむことができる。『人狼』という映画を観るという行為は、この疼くような、ゆったりとした音楽によって完成するのである。
Arnaud Lambert
+原注
(1)『アヴァロン』、『攻殻機動隊』、『イノセンス』、『パトレイバー』の監督。
(2)『攻殻機動隊』は、全世界の批評家から認められた。その完成度の高さが評価されている。
(3)特に『攻殻機動隊』の作画監督として有名である。
(4)Studio Canal発売の『アヴァロン』BOXセットに添付のリブレットを参照。
(5)押井は、67年から68年にかけて、たびたび左翼活動家のグループと接触しており、自室で秘密の会合も行っていた。
(6)『高い城の男』は、ドイツと日本に共同統治された戦後の世界を舞台としている。そこでは作家の妄想に真実味があるものとされており、我々のリアリティ感に対する疑問が呈されている。
(7) アメリカの多作なSF作家(『ブレードランナー』)。しかし空想未来小説や60年代のアメリカを描写した作品において、社会に対する批評的な眼を持っていたことも忘れてはならない。
(8)作曲家、菅野よう子の同僚。
〜以上、訳終わり。
*訳注
*訳注1:ブリジット・バルドーは言わずと知れたフランスを代表する女優ですが、熱烈な(狂信的な?)動物保護活動家でもあります。2004年に人種差別を扇動したとして有罪判決を受けています(笑)。
*訳注2:この評者は、「セクト」という言葉をグループの団体名として理解したようです(あるいはフランス語版ではそうなっているのかも?)。日本で「セクト」と言うと一般には極左グループのことですが、フランスで「セクト」(secte)と言うと新興宗教団体を指すため、このようなことになったのではないかと思われます。
*訳注3:原文では少女の名前がKei Ayanamiとなっており、評者がいろいろ間違っていることがうかがえます。
*訳注4:正確な発言は未確認。
*訳注5:原文では「羽田空港建設の際の」(lors de la construction de l’ aéroport Haneda)となっており、評者が羽田闘争と成田闘争を混同していることがうかがえます。若き押井監督が参加した羽田闘争は、佐藤首相の南ヴェトナム訪問阻止が目的とのこと。
参照先
ラベル:人狼