2007年12月15日

フランス人の『おもひでぽろぽろ』評

 先日、初めて三鷹の森ジブリ美術館に行ってきました。迷路のような展示を楽しみまくり、カフェでビール「Kaze no Tani」を飲み、「星をかった日」の美しい映像に心洗われました(一緒に行った人には不評でしたが・・・)。

 意外だったのは、館内の使用言語が日本語のみであること。展示物(特に常設展示「映画の生まれる所」)や上映作品の面白さが、日本語を理解しない外国人にはかなり伝わりにくいのではないか、せめて英語の説明文や字幕はつけられないのかなぁ、と思いました。

 それはともかく、『おもひでぽろぽろ』のフランス人評をご紹介。

 フランス語圏で最大かつ最も詳細なジブリ作品総合サイト、BUTA Connectionから翻訳と掲載の許可を頂きました。日本語で大変丁寧な返信がきて驚きました。

 『おもひでぽろぽろ』は、フランス語字幕版DVDが『Omoide poroporo』の題名で今年10月にBuena Vistaから発売。仏題は『Souvenirs goutte à goutte』と呼ばれることも多いようです。

 『おもひでぽろぽろ』の、現在−過去や現実−空想の交換と混濁、郷愁を誘う巧みな演出、味わい深いラスト等は、日本人でなくても心動かされるはず。また、冒頭の小津安二郎風オープニングからして嬉々としてしまうフランス人もいるかも。

 でも、あの「ET」だけはよく分からん・・・。

〜以下、訳。

『おもひでぽろぽろ』

 タエ子は27歳の都会人。義理の兄の家族がいる田舎に休暇に出かける。仕事に関する心配事を忘れ、彼女は子どもの頃、まだ自分が11歳の1966年に起こった、ちょっとした出来事や思い出で心がいっぱいになる。

 『おもひでぽろぽろ』(« Souvenirs goutte à goutte »)は、過去を通して未来を模索する日本人女性の物語であり、現代を生きるすべての女性の心にも響くものである。スタジオ・ジブリでの高畑作品の中で(少なくとも欧米では)最も過小評価されている作品だが、知的で繊細な傑作である・・・。

リアリズムと詩情性の間で

 現在のシーンと過去のシーンの間で表現が明らかに異なっている。現在のシーンがほとんどドキュメント映画のように事細かであるのに対し、過去のシーンではよりパステル調のトーンになり、タエ子の思い出を幻想的に描いている。このドキュメント調の表現は、登場人物のキャラクターデザインだけでなく、綿密に描かれる背景や、詳細に描かれる山形地方の日常生活にも見ることができる。タエ子が摘む黄色い花、ベニバナの収穫に関しても、農家の人の服装や実際の収穫方法に忠実に描かれている。この驚くべきリアリズムは、事前になされた多大な研究結果の賜物であろう。

 しかしながら、『おもひでぽろぽろ』は実写映画を正に超越しており、若い日本人女性の日常を、ただリアリスティックに映像に捉えた映画なのではない。この映画は、アニメーションという方法を使いながらも、おそらくは実写映画がまず到達できないであろう真に感動的な瞬間を観客にもたらしてくれている。例えば、タエ子が歌い出したり、空を舞ったり、虹がかかるシーンは詩情に満ち溢れており、これが実写映画であったら悪趣味になったり、滑稽なものになってしまっていたであろう。また、ヒロインである少女を引き立たせるために、高畑はショットやフレームを入念に選んでいる。少女が台詞なしでただ手を動かすシーンでは、この束の間の瞬間だけ時間が止まったように思え、動きが止まり、ゆったりとしていながらも喚起力のあるこの手の動きに観客の注意が集中させられる。このように、動きのない背景や登場人物によって最もたやすく力を発揮することができるのがアニメーションなのであり、また特に、安っぽい手法や節操のないアクションシーンを使うことなく、単なるジェスチャーと巧みなシーンによって感動を呼び起こすことができる、ということをよく理解していた高畑の才能によるものである。

ノスタルジックな映画?

 『おもひでぽろぽろ』は、単にタエ子の幼少期をノスタルジックに描く映画なのではない。幻想的な面の裏には、社会的・文化的背景が横たわっている。若い女性の過去に対するまなざしを通して、監督は戦後日本の変化を描いている。この変化というのは、1960年代に爆発的に進行した西洋化であり、それ以来今もそれは続いている。しかしながら、この現代日本社会の変化は過激なものではなかったし、危機をもたらすものでもなかった。

 事実、高畑は過去に対して単にノスタルジックなまなざしのみを向けているわけではない。例えば彼は60年代に典型的な家族を我々に見せてくれている。そこには、極めて強大な父親の権威に押し潰されそうになることもある母親、愛すべき人間であるが娘たちに対してはあまりに堅くてあまりに頑固なこともある父親、そして時に横暴になることがある姉たちがいる。家族関係はまだ変化しておらず、女性が限定的な決定権しか持たされていない社会の、あらゆる束縛がそこに見てとれる。独身のタエ子はマイナスの印象を持たれており、若い女性は自分の意見を自由に言うことができず苦しんでいるように見える。高畑の映画は全く牧歌的なものではない。この監督は、なにより日本の社会的変化と一定の伝統や風俗の存続を物語ろうとしているように思われる。

 さらに高畑は、近代化の特徴も見逃してはいない。トシオが強調しているように、東京の住人は自然を人間に脅かされたことのない手つかずのものと理解するが、田舎の住人は何世紀もかけて人の手によって作り上げられた風景であって本来の自然ではないことを知っている。正にこの話によって、監督があらゆる過度の単純化や二元論のような紋切り型の結論を退けようとしていることがわかる。監督はなにより40年前の日本社会が被った、ポジティヴな面もありネガティヴな面もある、急激な変化を認識しようとしているのである。従って高畑は、『おもひでぽろぽろ』の中で日本社会の進歩をテーマにしているのではなく、日本がその急激な変化によって自らのアイデンティティを失いかねないという点を扱おうとしているのである。近代化や過去の軽視に関する監督のこの問題関心は、正に次作『平成狸合戦ぽんぽこ』に通じるものである。

思い出

 高畑は、社会学的な検討を加えるためにだけ、現代のシーンを加えたわけではない。この映画は、アニメーション映画の中で今までにないスケールでの心理的描写を行っている。この映画の演出によって、一人の人間にとって過去の思い出が現在にどれほどの影響力をもっているか、ということが示されている。成人したタエ子の運命は、子どもの頃のタエ子のエキセントリックで、自己中心的で、夢見がちな行動の結果として、まるでカルマのように、定まってしまったかのように見える。思いがけなくも、この27歳の女性はたった11歳の時のエピソードを思い出す。「どうして11歳なの?」と彼女は自問する。それは、移り気で自己中心的な子どもが、他者との間で自分の人格や、社会における自分の役割についての信条を持ち始める年齢が11歳だからである。

 高畑は、タエ子の思い出が断片的な記憶のフィルターによって美化され、選別されていることを巧みに示している。60年代の人物の描き方は、柔らかで単純化されている一方で、80年代の人物の表情は時に堅く、皺が多い。昔のアニメーション[*訳注=『ひょっこりひょうたん島』?]が登場したり、パイナップルの味を初めて知った場面のような、いくつかの思い出がノスタルジックに炸裂する。しかし、子どもの頃のタエ子の思い出すべてがノスタルジックなのではない。逆にいくつかの思い出はちょっとしたトラウマにさえなっており、むしろつらい思い出として成人した今でも大きな影をひいている。そのような思い出によって彼女は、他人を見る目や他人との接し方について、自分が今も子どもの頃のタエ子と変わっていないことを少しずつ自覚するのである。

 この意味で、トシオと結婚して農家に残ってほしいというおばあさんの提案は、タエ子の問題を再び引きずり出すことになる。都市よりも田舎での生活が好きだと誰彼となく繰り返し言い続けてきた彼女は、自分の人生を一変させる覚悟を全くしていないことに気付かされるのである。

 「農家の嫁になる。思ってもみないことだった。そういう生き方が私にもありうるのだというだけで、不思議な感動があった。『あたしで良かったら・・・』いつか見た映画のように素直に言えたらどんなにいいだろう。でも言えなかった。自分のうわついた田舎好きや、真似事の農作業が、いっぺんに後ろめたいものになった。厳しい冬も、農業の現実も知らずに、『いいところですねぇ』を連発した自分が恥ずかしかった。私には何の覚悟もできていない。それをみんなに見透かされていた。居たたまれなかった。」

 この状況はタエ子が[今も]自分を恥じいってしまう、小さい頃のあるエピソードと共鳴する。貧乏で不潔なクラスメート、アベのことである。同級生はみな彼のことを嫌っていたが、席が隣同士になったタエ子は特に嫌悪感を募らせていた。しかし他の生徒とは違い、彼女はアベのことを決して悪くは言わなかった。しかしながら、アベが転校する日に、先生が生徒全員と握手をするように言ったところ、アベはタエ子との握手を拒否した。「お前とは握手してやんねーよ!」大人のタエ子は次のように考えて納得していた。

 「アベくんのこと一等汚いと思ってたのはあたしだったのよ。アベくんはね、そのこと知ってたの。だから握手してくれなかったんだわ・・・。」

 タエ子がこの思い出をトシオに話したとき、彼はアベがタエ子に対して何か思う所があったに違いないと考えた。しかしトシオはその考えを押し付けようとはせず、タエ子を落ち着かせようとする。彼は議論を通して、アベに対するタエ子の罪悪感を払拭させてくれる。タエ子はここで自分の感情を問いかけ始める。

 「私は、自分がトシオさんをどう思っているのか、トシオさんが私のことをどう思っているのか、初めて考えようとしていた。偶然とは言え、私のひねくれた心をほとんどトシオさんに解きほぐしてもらうなんて、どうしてこれほどトシオさんに甘えることができたのか、不思議だった。トシオさんが、私より年上に見えた。私が、今握手してもらいたいのは、トシオさんだった。握手だけ・・・?この気持ちは何なんだろう・・・?トシオさんをそばに感じながら、私は一心に考え続けた。」

 タエ子は、自分で選択しなければならない人生の岐路に立っている。「一番良い選択とは何なのか?現状のまま生き続けることなのか?」タエ子はここに至るまで、自分の心の声と心の奥底にある願望に耳を傾けることなく、自分の気ぜわしい都会の生活をなすがままに生きてきた。田舎に身を置くことで、タエ子は別の生き方や別の人生の楽しさが田舎の微笑みの背後に隠れていることに気付き始める。映画はタエ子が自分の人生に関して初めて取った重要な選択に関するシーンで終わるが、それは深い内省を経て不安と希望で一杯になった直後のことである。こうして彼女は、会社勤めを辞めて農業従事者として生きようと歩み始めたばかりのトシオと、共に歩んでいくことになる。

エンディング

 タエ子の個人的な選択を演出するこの映画のエンディングは、心を大きく揺さぶり、観客の頭と心の中に長く余韻を残す。高畑の技量は、タエ子の決断をエンディングに滑り込ませたところにある。ここで観客は、この映画がこれで終わり、タエ子は自分の心に耳を傾けることなく、おとなしく自分の家に帰ってしまうのだ、と考える。当然その様な終わり方は、タエ子に感情移入し、タエ子が田舎に残る選択をとることを密かに望んでいた人にとっては幾ばくかほろ苦いラストということになる。

 しかし、映像が進行し、このエンディングにおいて正にヒロインがついに自分の心に耳を傾け、そして重大な決意をするシーンであることが明らかになる。少女時代のタエ子だけでなく、その友人たち全員が大人のタエ子を取り囲む。彼らはもはや記憶の奥底で失われてしまった思い出なのではない。まるでタエ子が自分の過去と和解し、本当の自分、そして自分の願いを正面から受け止めたかのように、子どもたちはタエ子を取り囲みながら走る。この数分間が、過去と現在を和解させながら未来を示唆する、この映画の本当のラストである・・・。極めて巧みなことに、高畑はタエ子の実際の未来を明らかにはしていない。タエ子がトシオの許に戻ったのはわかるが、彼女が彼と結婚したか、そして日本の田舎で彼と一緒に暮らしたのかは全く明らかになっていない。この物語の続きを書き、タエ子の未来を選ぶのは観客であり、この点が大げさであからさまなハッピーエンドよりも大きな感動を呼ぶのである。

 高畑独特の映画的感性はこのシーンとこの映画で、スタジオジブリの作品に特徴的な魅力と感動をいささかも失うことなく、再びその頂点に達した。結論として、『おもひでぽろぽろ』は、最終的に最も美しい物語とはおそらく個々の人間がそれぞれに持っている物語それ自体である、ということを訴える比類のない傑作である。


〜訳、終わり。



参照先:イントロダクション分析(1〜2)


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posted by administrateur at 23:50| Comment(6) | TrackBack(1) | おもひでぽろぽろ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
この作品は個人的に思い入れがある好きな作品なのですが、日本ですら過小評価でほとんど語られる場に遭遇する事がありませんでした。
しかし、こうしてフランスの地でここまでしっかりとこの作品の素晴らしさが伝わっているのをこの訳文で知ることができ、その内容に読んでるうちに感動を覚えました。
これだけの長文を訳するのは大変な事なんだろうなと思いますが、とても有意義で素晴らしい事だと思いますので、これからもぜひ頑張ってくださいね。何もお力になる事もできませんが、応援させていただきます。
素晴らしい題材と文章、ありがとうございました。
Posted by at 2007年12月17日 00:19
 予期せぬありがたいお言葉、ありがとうございます。
 この作品を高く評価している人は決して少なくはないと思うのですが、もしかするとある程度年齢を重ねないとこの魅力に気付くことは難しいのかもしれませんね。また、年齢だけではなくて、「静かに」進行していく映画に対する「慣れ」も必要かもしれません。
 いずれにせよ、非常に「日本的な」映画でありながら、しかもある特定の時代を描いた作品でありながら、少なくないフランス人を感動させている、という点はこの作品の普遍性を示しているのだろうと思います。さすがにタエ子のラジオ体操のシーンの面白さは伝わっていない模様ですが(笑)。
 今後もよろしくお願いします。
Posted by administrateur at 2007年12月17日 01:14
この作品を制作中のジブリのドキュメンタリーを見たことあります 2年間にわたり紅花をかきまくった女性
やっとできた背景画それにあわせて日が当たるセルだからできる実写では表現しきれない美しさ 
私がはじめてこの作品を見たのは小5くらいで内容をちっとも理解できずに終わりました
おばあちゃんが亡くなり田舎にいかなくなって哀愁とはなにかわかりこの作品がなんなのかやっとわかりました 
故郷の風景の説明はトトロで説明できなかったことを
作者に変わって説明しているんでしょうねw
興味深く見させてもらいました
外国語がだめなのでこうゆうサイトはとてもありがたくみさせていただいています
長々と駄文失礼しました
Posted by at 2007年12月17日 05:12
 そのドキュメンタリー、残念ながら未見です。見てみたいものです。ジブリのスタッフ、この映画の製作にあたって高畑監督に物凄く「酷使」されたようですね(笑)。
 この映画は、小さい頃に見た印象と、年を取ってから見た印象がガラリと変わる作品の好例かもしれませんね。
 この数十年で自分の「田舎」を失った人は一体どれほどだろうかと思います。これからの数十年でこれまで以上に「田舎」を失う人が増えるのだろうと思うと、ちょっと寂しい感じがします。「田舎」にこそ自分たちのアイデンティティが残っているのではないか?という疑問はおそらくフランスでも共通の問題なのではないかと思われます。
 こちらこそコメントありがとうございました。
Posted by administrateur at 2007年12月17日 21:49
おもいでぽろぽろが大好きで、でもなぜこんなにこの映画に惹き込まれるのかが自分でも分からなかったのですが、この記事を読んで、すごく共感し、納得できました。
そして、もっとこの作品が好きになりました!
いやぁ、素晴らしい記事でした。
なんか、読んでるうちに、日本人で良かったって思いました。
Posted by 友実子 at 2012年08月13日 03:43
素晴らしい翻訳です。 
そして何よりも素晴らしい映画解説です。
いままで数多くの映画解説を読んできましたが、これほど優れた解説は初めてです。
翻訳の労をとって頂いてありがとうございます。
Posted by グリーン at 2016年06月06日 12:07
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