2008年01月05日

フランス人の『太陽の王子 ホルスの大冒険』評

 あけましておめでとうございます。

 Buta Connectionのニュースによると、高畑監督の来歴と作品を論じる本が昨年10月にイタリアで出版された模様。著者は映画批評家・作家のMario A. Rumor氏、題名は“The Art of Emotion - Il cinema d’animazione di Isao Takahata”。9年がかりで書かれた欧米で初の高畑監督作品論(400頁)とのこと。序文は『アズールとアスマール』のミシェル・オスロ監督。
出版社の紹介頁(表紙画像あり)  この本に関する英文記事

 Buta Connectionから『太陽の王子 ホルスの大冒険』評をご紹介。

 『太陽の王子 ホルスの大冒険』は2004年2月にフランスで劇場公開されています。この作品を劇場公開した国は、フランス以外にあるんでしょうか?

 社会主義リアリズムにインスパイアされたと思しき作品全体の演出もさることながら、ソヴィエトっぽい間宮芳生氏の音楽がレトロで良い。「行けー走れーホル〜ス〜♪光る明日目指〜し〜♪」 この頃の「明日」は明るかったのだなぁ。

 その時代時代の野心に燃える若きアニメーターたちが奮闘して、1968年に『太陽の王子 ホルスの大冒険』が、1987年には『王立宇宙軍〜オネアミスの翼』がそれぞれ生まれたわけですが、これら二作品に続く作品は生まれる(or生まれた)のでしょうか?

 ホルスはノーパン。

〜以下、訳。

『太陽の王子 ホルスの大冒険』

イントロダクション

 日本公開から35年以上を経て、2004年2月に『太陽の王子 ホルスの大冒険』(Horus, Prince du Soleil)が正式にフランスで劇場公開されたのは、日本のアニメーション作品に対して今も広がり続けている観客の興味関心を満足させるためであった。今や現代アニメーション界を代表し、批評家から高く評価されている人物たちの名前が、[フランスの]配給会社の発表に記載されたクレジットから抜けているとは言え、そもそもフランスにおいてこの映画が公開される可能性はほとんどなかったと思われる。

 『太陽の王子 ホルスの大冒険』は、日本のアニメーションの歴史を支えてきた人物たち、すなわち高畑勲と宮崎駿、そしてこの二人の陰に隠れているものの同等に重要な、大塚康生、森康二、そして小田部羊一が、一堂に会した作品として有名である。

 しかし、『太陽の王子 ホルスの大冒険』には、有名な名前がキャスティングに並んでいるということ以上の意味がある。この映画は、日本アニメーション史における転換点(toumant)としてしばしば言及される。というのは、この作品が[既存の]表現方法から「独立した」史上初めての作品だったからである。つまり、制作スタジオの責任者から強く指示される収益性の問題に抵抗しながらアーティストたちが製作しようとし、そして実現した最初の映画なのである。ディズニー・モデルから日本のアニメーション映画が脱却し、そしてこの[アニメーションという]表現手段を、現在では我々も見慣れている、芸術的にも物語的にも技術的にも新しい表現の仕方へと向かわせることを可能にした、過渡的な作品なのである。

 『太陽の王子 ホルスの大冒険』は、高畑監督の第一作目の長編作品であり、子供向けの素朴な面を持ちながらも、それとは逆に(極めて)雰囲気が暗い上にユーモアの部分もなく、全体として少年層の観客に配慮する意志が欠けた冒険映画である。作品の出来にはむらがあり、動きのある見せ場もあればテレビシリーズ程度の静止画もある。日本のアニメーションのルネサンスとしてのこの映画は、スクリーン上に製作上の混乱を映し出してしまっている。

作品の分析

 高畑勲と製作チームは、『太陽の王子 ホルスの大冒険』を製作するにあたり、東映動画の伝統にならって子供向けの映画を作ろうとしたわけではなかった。彼らは、子供向け映画とは異なる、形式よりも内容重視の、価値のある映画を欲していた。そして、高いクオリティを持つ、劇場公開用の映画を製作することを目標とした。そのため彼らは、登場人物たちの複雑な感情を描き、そしてより大人向けの思想を表現するために、入念な演出と、登場人物たちのリアリスティックな表現や関係性を求めようとした。従って『太陽の王子 ホルスの大冒険』は、アニメーション映画としてではなく、映画そのものとして製作されたのである。

 しかしながら、60年代初めの東映動画は、アメリカ流のノウハウ、特にウォルト・ディズニーの方法論しか知らなかった。その方法論とは、幼い観客を惹きつけるためにかわいい動物たちを登場させ、善意あふれる美しい物語を製作する、というものである。このため東映は、主人公たちを助ける動物たちが登場すること、子供にも理解できる古典的な物語にすること、そして若い観客に適した(80分程度の)短編にすること、といったいくつかの条件をクリアすることを要求した。『太陽の王子 ホルスの大冒険』は経済的およびマーケティング的にはこのような文脈の下で製作されたのである。

 結果はどうだったか?以上のような歴史的事情や高畑と製作チームがかかげた高い志を勘案したとしても、当時としては(あまりに?)大きな野望に見合う水準に、この映画が達したとは到底言えない。

 技術的な観点からすれば『太陽の王子 ホルスの大冒険』は、貶されることの多い二つのシークエンス、すなわち村人たちがオオカミに、そして次にネズミに襲われるシーンで静止画を使用しているとはいえ、一定の完成度を持った映画ではある。この二つのシークエンスを別にすると、アニメーションのクオリティは(技術的に)高く、リズム感がある(例えばホルスがオオカミと対決する冒頭のシークエンスや、巨大なカワカマスをしとめるシーン)。ショットは入念にそして複雑に構成されており、常に前景と後景があることによって視界に奥行がもたらされ、その画面の中で登場人物が行き来し、出入りすることによってその効果が保たれている。緊張感や登場人物の感情を強調するために「カメラアングル」も極めて多岐にわたっており、また、複雑なカメラ「移動」は『太陽の王子 ホルスの大冒険』を正に実写映画に近づけようとする意志を感じさせるほどである。このような点に関しては、高畑と製作チームによるこの映画は成功したと言え、彼らの意図は完全に達せられた。

 しかし、収益上の、そして技術上の問題に忙殺され、また、彼らのアヴァンギャルドな思想をまとめ上げることも困難であったことから、場違いな修正や不本意な省略がなされ、この映画には数々の破綻の跡が見られる。物語も中途半端な印象を受ける。大人の観客を開拓しようとしたにもかかわらず、『太陽の王子 ホルスの大冒険』は、善と悪が対決する[単純な]二元論の映画である。グルンワルドは悪者の典型であり、ホルスはそれに立ち向かう正義の主人公である。

 映画のトーンは、祝祭や歌のシーン以外はユーモアもなく重苦しい。心理的に複雑な人物たちを登場させようとしたにもかかわらず、その設定は不明瞭であり、徹底していない。一例を挙げると、ヒルダがホルスに自分はグルンワルドによって呪いをかけられていることを告げた際も、あるいは太陽の剣を恐れた際にも、ホルスはなぜかヒルダを怪しもうとはしない・・・。また、傲慢な魔法使いであり、世界の所有者を自称するグルンワルドが、人類全体に対する壮大な征服計画を持っていながら、映画の中では小さな村しか相手にしていないのは少し変である。人間を苦しめ、人間たちのあいだに不和をまき散らしながら、その人間たちを滅ぼそうとする動機付けが明らかではない。省略の仕方が上手くいっていないため、単純化され過ぎてしまったのである。また、太陽の剣の由来が最初から最後まで明らかにされない。太陽の剣は、映画の終盤で村人たちが力を合わせることで鍛え上げられ、グルンワルドを倒すことになるが、その団結力を象徴するものでしかないのである。

 高畑が大人向けの映画を製作することに最終的には成功しなかったとしても、それでもなお、東映から課せられた条件の下で、子供向けの映画という枠からはみ出ようとしたということに変わりはない。コロは、この映画で唯一軽いタッチで描かれる役の一人であり、子どもたちの注意を惹きつけ、また、ホルスの存在を引き立たせている。映画の最初から最後まで登場するものの、脇役的な存在でしかなく、登場しない時間の方が長い。しかし、物語の補助的な語り手として重要な役割を担っているフクロウのトトやリスのチロよりは、わかりやすい役どころである。ヒルダの内面的な葛藤を描くために高畑は、この少女の心の中でぶつかり合う、二つの矛盾した心理や感情をこの二匹の動物[=トトとチロ]を使うことによって表現した。主人公たちに動物の脇役を付けるというやり方は東映動画の伝統である。そのやり方に従いながら、高畑は象徴的な意味を二匹に与えたのである。

 おそらくヒルダは、この映画の中で最も興味を引く登場人物である。この物語の三分の二にしか登場しないとは言え、物語が進むにつれてその役割は重要さを増し、ホルスの存在感を凌駕したといっても過言ではない。大人向けの映画としての面はヒルダにこそ表れているのであり、この作品が製作された1960年代末の日本の政治情勢を考慮しなければならない。後に高畑が打ち明けているように、『太陽の王子 ホルスの大冒険』の製作陣は、ヴェトナム戦争に大きく影響を受けていた。日本の領土内にはアメリカの基地が沢山あり、アメリカはヴェトナムを攻撃するための補給基地として日本を利用していた。日本人は合衆国の同盟国であるということが理由となって、この戦争に自分たちの国が巻き込まれるのではないかと危惧していた。多くの日本人は断固としてこの強いられた「戦争協力」に反対し、アメリカがこの戦争に敗北することを望んでいた。このような状況は映画のトーンや内容に影響を及ぼしており、特に日本のアニメーション映画において史上初の「複雑な心理をアニメで表現された人物」であるヒルダへの影響は大きかったと思われる。ヒルダは、複雑な感情を持ち、迷い、自分の矛盾を自覚し、そのことに苦しむ人物にならなければならなかったのである。悪魔の心と人間の心の間で思い悩むヒルダは、矛盾を抱え込み思い悩む日本を象徴しているのである。

 高畑は次のように説明している。「この人物(ヒルダ)に取りかかろうとしていた時、ヴェトナムに送られていくアメリカ軍兵士のことが強く我々の頭の中に浮かんだのです。アメリカの介入は正当な行為であると[軍から]説明されていたとしても、彼らは自分たちが歓迎されていないことを[現地で]認めざるを得ない。自分たちは死地に送り込まれたのだと思いながらも、同時に彼らは戦いを遂行しなければならない。ヒルダという人物はこれと同じ緊張状態にあるのです。」(*訳注)

 もちろん、合衆国と日本の関係が映像の中に明白な形で現れるわけではない。しかし、当時の映画製作者たちにとっては自明のことだったのである。

 確かに『太陽の王子 ホルスの大冒険』は、重苦しく、笑える部分も無く、子供向けの作品ではない。高畑や製作チームの高い士気を受けて、厳密に計算された演出が行われているにもかかわらず、彼らの経験不足や現場の混乱から、この映画は技術上のそして脚本上の欠陥を諸処に露呈してしまっている。しかし、中国あるいは日本の古い伝説から着想を得て物語や舞台を決めていたそれまでの日本のアニメーション映画とは、全く異なる寓話を表現した初めての映画だったのである。なにより、『太陽の王子 ホルスの大冒険』には、さまざまな問題に直面して極めて強い感情にとらわれる、奥行きのある人物たちが登場する。この映画で見ることのできる心理的な表現や幻想的な表現は、日本の長編映画には無かったものだったのであり、入念に計算されたフォルムと複雑な登場人物を備えた映画製作への扉を開くことになるのである。ヒルダは、善と悪の間で揺れ動く日本のアニメーションに特徴的なあらゆるキャラクターたちの起源なのであり、また、宮崎駿が特に好む強いヒロインを先取りした現代的な女性像の起源なのである。


〜以上、訳終わり。


 *訳注:高畑監督の正確な発言は未確認。宮崎監督は1981年に行われたインタビューの中で、『太陽の王子 ホルスの大冒険』について次のように述べている。「そのころ、東映動画の作画はチンタラしてくだらないとかいろいろ話していましたし、ちょうど白土三平の「カムイ伝」が始まったような時代で、なんかいままでと違う、はげしいものとか、そういうふうなものを作りたいっていう気分がこっちにあったときです。そういう時代がやっぱり反映してるんだな……。ベトナム戦争の影響がものすごく強かった。」(宮崎駿『出発点[1979〜1996]』463頁(徳間書店、1996年))。

参照先:イントロダクション 分析


posted by administrateur at 21:31| Comment(2) | TrackBack(0) | Anime en France | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
今年もびざろいどの記事を楽しみにしています。

作品中の社会主義への志向、ロシア趣味についてなにも言及がないのは淋しいですね?
フランス人の目からは特筆すべき特長にはあたらないんでしょうか。
Posted by ぴー at 2008年01月06日 22:24
〉 ぴー様
ありがとうございます。お楽しみいただければ幸いです。

確かに「社会主義」とか『雪の女王』という言葉が出てきてもおかしくないはずですが・・・。「日本の」作品という点に興味が集中し過ぎているんでしょうか。他の映画感想サイト見ても同じような内容なんですよね・・・。うーん、よく分かりません。
Posted by administrateur at 2008年01月07日 22:11
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